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日々徒然

英語で議論するバカらしさ

海外で日本人同士が英語で議論するという記事を読んだ。

 

結論から言うと、バカ?かと。

 

少なくとも母語が日本語の日本人なら(海外育ちとか特殊例除いて)、外国語でコミュニケーションを母語と同レベルで取れる人ってかなり少ない。しかもそんな超少数派が偶然海外の酒場で出くわして、英語で議論って(笑)

 

語源やニュアンスを深く1語づつ理解できるには文化への深い理解が前提。だから、日本人同士なら日本語で議論したほうが明らかに生産的で、意思疎通は簡単。
相手に気を遣うのが面倒とか、英語回路で思考するとか言うけど、その程度の思考レベルで話してるって自己紹介してるようなもん。

 

僕は英語話せる海外在住だけど、「日本人同士で英語で議論する」とかまずやらない。
アメリカ人やイギリス人、外国人となら英語で議論するけど、日本人同士で英語で議論するとか意味ないし、実際かなりバカっぽいよw

 

海外育ちで、日本語がうまく話せない日系人とかは、英語でニュアンスを説明することがあるけど、日本人同士で英語で話すことのメリットはほとんど無いから。やる必要もないし。それを正当化するレトリックも馬鹿らしい。

 

文化に飛び込む

今日Twitterで見た田舎に移住した人が失敗して田舎批判してた話。

 

批判内容を要約すると、「田舎生活は実際はモノが高くて、コストがかかりすぎる。なぜなら地元コミュニティが閉鎖的でよそ者にはタダで野菜を分けてくれないし、優しくない」とかウンタラカンタラ。

 

「田舎の閉鎖的価値観」というのは批判されがちな言説であるわけですが、米欄は案の定と言わんばかりの反応。

しかし、問いたい。

君の方に非は無かったのか?

 

土地に馴染むということの定義

他所の土地に行くということって、新しい文化圏に飛び込むっていうことです。

他所の土地には、その土地の風土・文化があるのが当たり前で、その土地の共通認識やアイデンティティを共有していない人は、よそ者や外国人(エイリアン)扱いされる。

当然、そのコミュニティと仲良く、うまく付き合うには、知る努力が求められる。
こちら(文化にお邪魔する側)から土着文化に寄っていく、理解しようとする努力が必要なんですね。

具体的に言うと、土地言葉を覚えたり、風習・文化を勉強したりする努力が相当します。

これはニコロ・マキャベリの言う「既存のパラダイム」を捨てて「不確実性」に飛び込むということでもあります。

(同じことが海外移住でも言える。)

 

議論の前提条件

コミュニティというものは、ある種の前提条件の共有がある。

それは言葉だったり、歴史や時間だったり、地理であったり。その前提条件への理解・共有をして、初めてスタートラインに立てる。
ポストモダンの悪影響か知らんけど、前提条件を共有できない人が増えていて、議論をしようと試みても、そもそも話が成立しない。

日本だとネットで、アメリカだと各政党支持者に見られる傾向で(identity politics)と言うそうですが、前提条件をお互いが理解と共有をしてないので議論が平行線のまま。

平行線どころか中傷合戦になってしまう。

最終的には、お互いが理解し合うための対話を諦め、反対意見の撲滅と破壊が目的に。

最終的に理解し合えない国民同士は分断されました。

 

この田舎批判の真相

今回の田舎批判を見てて思ったのが、議論の前提条件が価値観の押し付け(identity politics)にある点。

日本の現代の価値観は普遍的に見えるが、実はとても脆く普遍的ではないのです。

そして、自身の価値観は必ずしも相手に理解されるとは限りません。

違うコミュニティに入るときに、持っていた価値観が否定されるなんてのは往々にしてある。

でも、否定へは耐久性が必要で、マキャベリ風に言えば、不確実性への耐久力と言えるかもしれません。

そこへの耐久力が弱いと、「わかってもらえない」ことに卑屈になり、コミュニティに属さなくても生きていける都会へ逃げ帰るしかない。今回はそんな事例に見えます。

 

東京(今は地方都市も)では確固としたコミュニティは存在しません。

コミュニティに属した経験が少ないため、コミュ力や適応力は弱体化しており、濃密な人間関係を築く能力が無い。

だから、田舎の昔ながらの共同体に代表されるような、小さくて単純なコミュニティにすら、対応に四苦八苦しているのです。

高層ビルが立ち並ぶ眩い街も、空虚で孤独な人間たちが彷徨う砂漠のような場所なんですよね。

薄っぺらい日本のリベラル

Twitterを見ているも日本の避難所の設備をフィリピンと比べて非難している人が沢山いる。

 

僕はフィリピンに四年住んでいて、実際に避難所に災害時支援をしたことが何度もある。

日本から届いた食料品の支給や、寄付金を被災者に届けるというボランティアをしていた。

だから、実際の避難所にも何度も行ったことがある。

 

断言してもいいが、日本の医療福祉サービス(避難所の設営や設備など含む)がフィリピンより劣るということは間違っている。

一部の富裕層が住む地域はテント付きかもしれないが、実際はもっと密集していてお世辞にも設備が整っているとは言い難い。

そんな避難所ばかりだった。

つまり、フィリピンの一部の避難所の写真を切り貼りし、それをダシに日本の福祉サービスを批判する浅はかさ。

実際にボランティアで行っていた僕に言わせれば、ナンセンスとしか言いようがない。

 

新自由主義な構造に気づけ

更に僕が驚いたのは、日本のリベラル、(もしくは日本人全体かもしれないが)その国際感覚というか、グローバルな視点の欠如である。

言わずもがな、フィリピンという国はアメリカ的な新自由主義が蔓延る国で、貧乏人は病院にすら行けないような国だ。

アメリカでは皆保険が無いのと同様、更に酷いのがフィリピンである。

僕は住んでいたのでよく分かるが、フィリピンの富裕層向けの病院は最新の医療機器を取り揃え、キレイな設備を誇る一方、その他の地方の病院の医療はお察しレベルである。

 

格差は日本より大きく、スラムでは数十円の食費が稼げないような本物の貧困が溢れかえっている。

僕の友達でも、島を所有する女の子から、2千円の家賃を払えない世帯持ちまでの格差がある。それは単純な努力だけで埋まらない差だろう。

 

リベラルに忌み嫌われる安倍晋三小池百合子竹中平蔵がやっている経済政策を、更に露骨にネオリベ化したのがフィリピンだ。
そのフィリピンと日本を比べて日本の福祉を批判し、「日本は後進国」などと宣う。
日本の似非リベラルは稚拙なことに、この皮肉的な構造を気づいていないのようだ。

なんと浅はかな国際感覚と、悲惨な洞察力だろうか。

僕だったら自殺したくなるね笑

でも結局は英語も必要かもしれない

施光恒先生の「英語化は愚民化」に大変感銘を受けた私ですが、

それでも私は英語は必要論者です。

むしろ、英語の勉強これからも続けていくとの気構えは強くなった。

 

新自由主義の大勝

小池百合子圧勝での再選に見るように、日本で新自由主義は根付いてしまった。

国政では安倍晋三は依然として新自由主義的な(平蔵的)政策を推し進めている。

つまり日本では、グローバル化構造改革路線の波は全然収まっていなくて、寧ろ静かに、新自由主義的な冷たい社会が淡々と続いているままだ。

そして、その世界で生き延びるには、個の力をつけなければ稼げない。

 

個の力

個の力などと言うと、サッカー日本代表みたいな響きで気持ち悪いのは重々承知であるが、現実として英語やその他スキルは必須になっていくような気配すら見せてきている。

英語の公用語なんて議論は昔からあるそうだ。

このまま英語化が進むのなら、その荒波に耐えなければならない。

政治に期待が持てない以上、個々人で頑張って力をつける以外に生き残る解決策が見当たらない。

「英語化は愚民化」が正しいと思うが、だからと言ってこれを言い訳に何も勉強しないのは間違っていると。

英語以外でもなんでも良い。

生き残るために努力はし続けるしかないのだと。

やはり一生勉強だ。

橋下徹

相変わらずお猿さん並みの知能のようだ。

 

6日放送の日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」(月~金曜・後1時55分)では、熊本県で25人が死亡するなどの被害が出た九州南部の豪雨災害について冒頭で取り上げた。

 この日の番組には元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏(51)が生出演。「危険な場所に住まない、住まわせない」、「ダムに頼らない治水の検証」の2点を提言した。

 まず、「大阪では1時間雨量80ミリが、一生に一度経験するかどうかの雨という前提で治水計画が作られている」と知事時代の経験から話した橋下氏。「でも、今は一生に一度とか、50年に一度の雨が頻繁に起きていて、治水計画の前提がもう狂っていると思うんです。人間が自然をコントロールするという前提はもう変えていかないと」と続けた。

 「今、被害にあわれている方には政治がお金を使って全力で復旧していくのは当たり前の話なんですが、今後、令和以降の時代を考えた際は一歩進めて、危険が生じたから逃げるでなく、そもそも住む場所を変えていくことが必要なのかなと。当然、反発は食らいますが…」と橋下氏。「危険地域からどう住まいを移ってもらうかという政治が必要です」と続けた。

バカすぎだろう。

そんなこと言ってたら、川沿いのお家の住む人はどうなるのか?と。

危険域に住む方を別の場所に引っ越しをさせるなら、行政が完全に補償するのが大前提だが、そんなこと出来る財源はどうするのか考えて話しているのか?

そもそも、そんなお金があるのなら、老朽化したインフラ設備を補強する方に、つまり水害対策に投資したほうがよっぽどまともである。

防波堤を高くするとか、水害の多い河川の上流に新しくダムを造るなど。

出来ることは山ほどある。

 

「川の近くに住むな」などとバカげたことを言っていたら、住む場所など無くなってしまうだろう。

何のために先人がダムを造り、防波堤を作ったのか。

浅薄極まりない発言で頭が痛くなる。

この程度の思考力だから維新の会には票を入れられないのだ。

浜松市の水道民営化

我が故郷で馬鹿なことをしている輩がいるようで。

おっとりとした浜松市民の気質につけ込みすぎだろう。

 

都知事選でも、小野たいすけなどと言う新自由主義者が居たが、あの手の論者はネオリベラリズムと海外で言われており、海外では時代遅れと見做されている。

 

まず、水道の民営化などと言ってもピンとこないかも知れないから平たく言おう。

①水道代が値上がり

②水質が悪くなり、水が飲めなくなる。

民営化した場合、この二つが起きることを予言する。

これが水道民営化の真実で、”実際にヨーロッパの都市部で起こった”ことなのである。

民間企業は利益を最優先するもので、そんな連中に公的サービスを任せたら、どうなるかは自明。

サービスの質より短期的な利回りを重視する。料金の値上げや水質保持の設備投資費用を削減するのだろう。

繰り返すが、民間企業の優先順位は金儲けだから。

 

竹中平蔵のような下賤な輩は民営化すると「ビジネスが生まれる」などと言うが、実際は公共サービスを民間企業売り、民間が水道代を値上げをするだけの話である。

つまり民間企業による搾取で、これを”構造改革推進”などと偉そうに言っているわけだ。

この構造は正確に表すなら、政治学的にはレントシーキングと言われる。

僕が天皇陛下だったら竹中某など絞首刑にしたいところだ。

 

まあ、日本人はバカなので相変わらず新自由主義的な政治家(維新の会や安倍晋三内閣)を応援する傾向が強いが、このまま進むと日本は滅びますよ。

潜在意識の顕在化

中野剛志先生が仰っていたのだが、

潜在意識で、なんとなく、直感的に思っていたことを言語化してくれる本を名著と定義するのだそうだ。

そのお言葉こそ、僕の潜在意識を顕在化させてくれるような名発言なわけだけども。