’s blog

日々徒然

文化に飛び込む

今日Twitterで見た田舎に移住した人が失敗して田舎批判してた話。

 

批判内容を要約すると、「田舎生活は実際はモノが高くて、コストがかかりすぎる。なぜなら地元コミュニティが閉鎖的でよそ者にはタダで野菜を分けてくれないし、優しくない」とかウンタラカンタラ。

 

「田舎の閉鎖的価値観」というのは批判されがちな言説であるわけですが、米欄は案の定と言わんばかりの反応。

しかし、問いたい。

君の方に非は無かったのか?

 

土地に馴染むということの定義

他所の土地に行くということって、新しい文化圏に飛び込むっていうことです。

他所の土地には、その土地の風土・文化があるのが当たり前で、その土地の共通認識やアイデンティティを共有していない人は、よそ者や外国人(エイリアン)扱いされる。

当然、そのコミュニティと仲良く、うまく付き合うには、知る努力が求められる。
こちら(文化にお邪魔する側)から土着文化に寄っていく、理解しようとする努力が必要なんですね。

具体的に言うと、土地言葉を覚えたり、風習・文化を勉強したりする努力が相当します。

これはニコロ・マキャベリの言う「既存のパラダイム」を捨てて「不確実性」に飛び込むということでもあります。

(同じことが海外移住でも言える。)

 

議論の前提条件

コミュニティというものは、ある種の前提条件の共有がある。

それは言葉だったり、歴史や時間だったり、地理であったり。その前提条件への理解・共有をして、初めてスタートラインに立てる。
ポストモダンの悪影響か知らんけど、前提条件を共有できない人が増えていて、議論をしようと試みても、そもそも話が成立しない。

日本だとネットで、アメリカだと各政党支持者に見られる傾向で(identity politics)と言うそうですが、前提条件をお互いが理解と共有をしてないので議論が平行線のまま。

平行線どころか中傷合戦になってしまう。

最終的には、お互いが理解し合うための対話を諦め、反対意見の撲滅と破壊が目的に。

最終的に理解し合えない国民同士は分断されました。

 

この田舎批判の真相

今回の田舎批判を見てて思ったのが、議論の前提条件が価値観の押し付け(identity politics)にある点。

日本の現代の価値観は普遍的に見えるが、実はとても脆く普遍的ではないのです。

そして、自身の価値観は必ずしも相手に理解されるとは限りません。

違うコミュニティに入るときに、持っていた価値観が否定されるなんてのは往々にしてある。

でも、否定へは耐久性が必要で、マキャベリ風に言えば、不確実性への耐久力と言えるかもしれません。

そこへの耐久力が弱いと、「わかってもらえない」ことに卑屈になり、コミュニティに属さなくても生きていける都会へ逃げ帰るしかない。今回はそんな事例に見えます。

 

東京(今は地方都市も)では確固としたコミュニティは存在しません。

コミュニティに属した経験が少ないため、コミュ力や適応力は弱体化しており、濃密な人間関係を築く能力が無い。

だから、田舎の昔ながらの共同体に代表されるような、小さくて単純なコミュニティにすら、対応に四苦八苦しているのです。

高層ビルが立ち並ぶ眩い街も、空虚で孤独な人間たちが彷徨う砂漠のような場所なんですよね。