コンテンツの価値は数で左右されない
茂木さんに触発されて
尊敬する茂木健一郎さんが数がすべてではないという話をYoutubeでされていた。
今やYoutuber全盛の時代だけど、視聴数も、イイネの数が多い人気のチャンネルは実はどのチャンネルも無個性化しつつあり、つまらないよと。
この見方って音楽にも通じていて、先鋭化された、研ぎ澄まされたアンダーグラウンドな音楽が世界には数えきれないほどあるけど。
でも、尖った音ばかりを奏で続けていても一部のマニアにしか売れない。
だから儲けを優先させれば、させるだけ、角をとり除き誰が聞いても心地よく聞けるつまらない音楽になって行く。
(もちろん、ポップミュージック=悪 / 低レベルな訳ないけど。)
昔のロックバンド隆盛の時代のような話がYoutube上で起きているわけだ。
何が言いたいかというと、個性をコンテンツが金太郎飴化しつつあり、
無害で無個性なコンテンツが山のように氾濫している状態だ。
SNS的な価値観
何かコンテンツを選ぶ際の基準もまた、そのコンテンツが映えるか否かが一つの基準になりつつある。
これは、レストラン、カフェ、旅行先から映画の選択まで。
SNSに投稿した時の反響の大きいほど行く価値が高くなり、
イイねの数が多く獲得できそうな写真が撮影できる場所が行くべき場所で、
他社と共有できそうなコンテンツに人々は殺到する。
いわゆる映えるスポットにみんなが集合するから、SNSで投稿される写真はどれも画一的になりつつある。
宮台真司さんはこれは愚民化だと結び付けて言っていて、すごく正確に若者の心理を捉えてらっしゃると思う。さすが宮台先生だ。
ただ、僕は、宮台先生の仰る「愚民化」する前の世代が若い頃を知らないから、
正直、真偽は判断できない。
むしろ、この手の「昔はこうだった論」はどうも若者叩きっぽいジイさん臭さがぬぐい切れてない感じがして、すべて腑に落ちてない。
今のお年寄りだって、昔はおんなじようなこと言われてたんじゃね?とすら思う。
元来、人なんて火に吸い寄せられる夏の虫みたいなもので、
俗っぽい人がSNSで可視化できるようになっただけな気がする。
イイねの数=正義
また少し脱線したけど、何を言いたかったかというと、
今の時代はSNSのイイねの数=正義 / 真実と囚われがちなのである。
ひと昔前はインターネットは文化の多様化を生むとされた。
でも結局インターネットのメジャーコンテンツは視聴数稼ぎにメジャー(大衆)向けになっていき、酷いYoutuberなんて、金儲けのためにチャンネル内で商品紹介を繰り返している。
わざわざコマーシャルを見にYoutubeを見ていくようではないか。
にも拘らず、フォロワーが大量発生していて、それを取り込むことが賢いとされていることには思うところがあるのだ。