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日々徒然

日本の魅力とは何か

僕は日本人が自分たちで考えるほど、日本という国は魅力的ではないと考えている。

もし、自分が外国人で、旅行で中国、韓国、台湾、タイ、シンガポールといった国々を訪問して、どこに魅力を感じたか?

将来的に腰を据えて住みたいと思える国か?

 

日本から来る観光客は「日本は住むにはいい国だからと言うけど」

果たして彼らが思うほど魅力的だろうか?

と考えてしまう。

やりたくない

視聴数ばかりを追い求める最近のYouTubeだが、あと数年もしたら斜陽になるかなと思う。

テロップだらけの画面、どこかで聞いたような効果音などに既視感を覚えたアナタ。

その感覚は正しいです。

結局、人気Youtuberというものはテレビの真似事してるだけなのです。

 

集団 vs 個人の図式

テレビを肯定するわけではありませんが、結局制作にかかわる人数、高価な撮影機材、録音機材を揃えるテレビ局の番組制作能力は高いのは疑いようがありません。

だって元々プロですからね。

 

音響、カメラ、演者など、それぞれの道のプロが集まり分業制で作品を作り上げるテレビに対し、Youtuberは機材を個人購入し撮影・編集・演出等、全ての作業を一人、もしくは数人で完結させる必要があります。

構図的にはミニマムで個人主義的な工程をとらざるを得ないYoutuberと、分業システムのテレビ局となります。

プロ集団の共同作品であるテレビ番組に、個人単位でテレビと似たような番組を作っていたら、Youtuberが負けるのは考えてみれば当然のことですよね。

 

テレビの決定的な欠陥

現代のテレビはマスに訴えかける多数派向けの物になっています。

多数派に受けるよう、視聴率至上主義といっていい。

だから、芸能人はスキャンダルが起きた時に「多くの人が気分を害してしまい~」などと訳の分からない理由で視聴者に謝罪するのです。

また、テレビは制作費がかかりすぎていて冒険的な企画内容は作れません。

失敗したときに大赤字になってしまいますから、冒険的で数が確保できるか読めない企画なんて作れない。

そして、過度にキツイ表現もできません。

”マス”に受け入れられるためには、「コンプライアンス上問題がなく」「多くの人が気分を害さない程度で」且つ「視聴率がある程度稼げそう」という前提条件があります。

つまり、アンパイな企画になりがちで、過去の人気番組と同じようなコンテンツが増えてしまう。そしてテレビは更につまらなくなる。

デフレスパイラルのようですね。

 

でも万人受けを狙うYoutuber

残念なことにYoutuberも万人受けを狙おうとすると”マス”を意識せねばなりません。

少数のフォロワーでは金が稼げない。

バラエティー番組のコピーのような作品や新商品の広告動画が蔓延っているのが人気チャンネルの現状で、もはやテレビの劣化版になりつつある。

劣化したテレビの劣化版を作っているのだから、YouTubeが超つまらないのは当然です。

商品紹介の動画に至っては視聴者が自らCMを見に行っているような構図で、ネットでジャパネットたかたを見ているのと構造的に変わりません。

 

数を相対化して考える

テレビで流せないコンテンツを流せるところにYoutube は可能性があります。

地上波では絶対にできないような、突き抜けた表現ができないならYoutube はこれからもテレビにすら勝てない可能性が高い。

動機が金になっているチャンネルは終わってる。

 

紹介動画を見て変な商品買いたくなっちゃうくらいなら、最初からネットフリックスなどのサービスに金払って、優良なコンテンツを視聴したほうが賢い。

遠州の蕎麦屋

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十割そば 百古里庵

日本国内ではコロナ禍は一段落したような雰囲気です。

遠州の奥、奥浜名湖の更に奥へ北上した先にある蕎麦屋

風情のある店構えに迎えられ、歯ごたえばっちりの十割そばを頂きました。

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蕎麦上級者向け

「つなぎなしの本物の蕎麦」という触れ込みに触発されて頼んだのですが太い!

つけ麺並みの極太麺で、つけ麺より硬くて笑ってしまう。

そば粉の香りは一流ですが、十割はやはり上級者向け。

 

自然に囲まれ、古びた家屋に和みながら非日常を味わえます。

また来たい。(次は二八を食べよう)

中野剛志著「日本思想史新論」を読んで

中野剛志先生の日本思想史新論を先ほど読了した。

文庫本サイズの薄い本であるが、ややもすれば論文に近い内容で小難しい表現も多かったので、読み始めから読了まで二日もかかってしまったが、その内容は「素晴らしかった」としか言いようがない。

中身は意欲的で、溢れ出んばかりの熱情を感じた。

戦後の思想家が思考停止的に評価してきた・せざるを得なかった開国論に一石を投じようとする姿勢。

 

もちろん、すべてを鵜呑みにすることはない。

著者の主張を妄信的に信じるべきでなく、他の視点からの戦後体制へや開国論への批評が読みたくなる。

特に、中野剛志先生は反グローバル化論者であるし、思想家の主張を恣意的に捉えているかもしれない。

(僕はやや加速主義的な節があるので、そのように感じたのかも。)

 

それでも、日本の偉大な思想家たちの主張はフェアに扱われえるべきという主張は頷くばかりで、この本で取り上げられた思想家たちは共通して、一貫して合理主義に批判的である。

現代のアメリカ的な合理主義が蔓延る現代にも普遍的なメッセージであり、このようなグローバル化に懐疑的な視点は多くない。

保守系の論壇ですら上念司のようなリフレ&グローバリストが闊歩するこの2020年。

これらの理論展開は今こそ必要だ。

相変わらずカタカナ言葉に弱い日本人にこそ必要な名言の数々。

戦前、開国前の思想に盲目的に批判しがちな日本では貴重な視点だと考える。

多くの日本人に読まれるべき普遍的な傑作だ。

日本のお笑いがオワコンな理由 2

芸人の知性・品性の低さ

日本のお笑いがオワコンな批判だが、お笑い芸人からの反発の声があったようだ。

でも、これがまた可笑しいのだ。

芸人は「茂木さんには笑いのセンスがないから、俺には刺さらない」だとか、

2chの書き込みと同レベル」などと猛反発している。

反論するのも馬鹿らしいほど、低レベルな返しの数々だと思う。

このレベルの議論かよとガッカリするしレベルの低さを自ら証明しているような感じだ。

松本人志に至っては反論にすらなってはない(笑)

 

しくじり先生の気持ち悪さ

問題提起から数か月後、しくじり先生は茂木さんを公開いじめするような番組を放送した。

先生役のゲスト出演者を芸人と対面に立たせ、”先生”は取り囲んだ生徒役の芸人たちからの厳しい指摘にひたすら釈明と謝罪して視聴率を稼ぐという番組だ。

安全圏から失敗した人を断罪する芸人こそ”しくじってる”と言いたくなった。

まるでSNSの誹謗中傷ではないか。

まるで匿名アカウントから誹謗中傷するような、絶対的な安全圏から批判する胸糞の悪さ。

むしろ、針の筵にされると分かっていながらも、引き受ける茂木先生のほうがよほど立派ではないか。

安全な場所から批判するだけの芸人やコメンテーターという図式こそ、まさに日本のテレビ的であり、現代日本の縮図のように見えてしまう。

粗を晒してしまった人は嵐が過ぎ去るまで謝り続ける他、生き残るすべはない。

これがレベルの高いコメディーなら日本のお笑いは死んでいる。

 

問題点

茂木さんが指摘する問題点は政治に対する姿勢である。

これはお笑いのプラットフォームの問題であって、個々のコンテンツの良し悪しをあげつらっているのでは無い。

プラットフォームの構造上の問題点から発生している批判精神の乏しさを嘆いている。

 

しかし、プラットフォームの中で自身の既得権益を最大化させることしか考えてない芸人は、「そのプラットフォームおかしいんじゃない」と指摘をされるとたちまちキレてしまう、たとえその指摘が的を得ていてもだ。

なぜなら、彼らはそのプラットフォームの中で勝ち抜いた人間だから、プラットフォーム自体の否定は自身の積み上げてきた地位の否定と同義にすらなりえるから。

そして、これだけキレるのは、日本の芸人も図星なのだ。

日本のテレビはつまらないし批評性が皆無という点で。

テレビ芸人がYoutuberやネットフリックスに乗っ取られるのも時間との相談だなぁと思うわけだ。

日本のお笑いがオワコンな理由

日本のお笑いはオワコン

この意見は茂木健一郎さんが数年前に言い出したことで、実は若干ではあるが、出羽守っぽいところがある。

僕は日本のお笑いがオワコンは言い過ぎだと思う。

コレはいわゆる、頭の大きすぎる主語で、そんなに簡単には一括に括れない多様性があるはず。

低俗で自虐的な笑いなど多種類に渡りそれを一括にオワコンとは言うのは乱暴だろう。

 

でも、日本のお笑いは視点が足りてないのは確かにある。

批評性である。

多様性はあるのに、TVでのお笑いは政治批評が全くないのは事実だ。

アメリカと日本のコメディの決定的な差は批評性だと思う。

そして、茂木健一郎さんの仰っている意味はここにある。

アメリカのトークショーでは政治がネタになることがよくあり、コメディよりのニュースショーの視聴者は、いわゆる「NHK ニュース7」的な普通のニュース番組の視聴者よりもニュースへの理解度が高いという話もある。

一方日本では、芸能人が政治をネタにするのはタブー視する傾向がある。

柴咲コウきゃりーぱみゅぱみゅTwitter検察庁法改正に反対の意向を示したところ、ネット上での彼女らへの反発は凄まじいものだった。

日本ではそもそも、芸能人やスポーツ選手の政治的発言は好意的に受け取られない事がある。

野球選手は野球やってろ!という田舎者のような批判が多い。

 

しかし、コメディや芸術の権力への風刺。

コレこそ大衆文化の持つ力ではないか。

政治への風刺はコメディができる社会貢献の一つだと考えるトレバーノアとは大違いかもしれない。

 

しかし、爆笑問題は政権批判はおろか、首相の主催する「桜を見る会」だとかにノコノコ出席する阿呆ぶりで、目も当てられない。

ワイドショーに安倍晋三が出演したとする、安倍の支持者はこぞって番組を見る。

出演者たちは政権批判などできるわけがない。

時の政治家は彼らのメシ(数字)を下さるスポンサーと等価であるから。

だから、日本のTVお笑いに批評性など存在しないのだ。

 

こういう反論もあるだろう。そんなことしているやつはもうアンダーグラウンドにいるとか、そういう笑いはレベルが低いとか。

 

私はとても疑問的である。

重要なのは、コメディの政治風刺は面白くなければならない。

コメディだからね。

笑わせてなんぼなのである。

権力者をコケに笑いとばせられるから痛快なのだ。

だから、村本さんみたいな人は残念ながら面白くないので問題外なのだ。

 

次に下の者が上の世代を馬鹿にする笑いのレベルについては、疑問しか浮かばない。

松本人志爆笑問題がトレバーノアより人々から笑いをとる能力があるか?

いや、無いだろう。

そして、松本人志爆笑問題のレベルが高くて観客がついていけないのではない。

単純にコメディとしての質が悪いのだ。

 

施 光恒さん「本当に日本人は流されやすいのか 」

上記タイトルの読了後である。たった今読み終わった感想。

 

読み始めた(昨日のエントリ参照)、著書の言わんとすることにに少々疑問的だった。

実現不可能に思えたからだ。

読了後でさえ、グローバル化の中で「日本らしさ」を取り戻すことは難しすぎる。

ミッションインポッシブルな課題に思えてしまう。

だって、このような大きな流れを作り出すのはアホな日本の政治を動かせなければならないし、それには国民が、国民に報道・情報流布する欧州かぶれのメディアが、日本全体が変わらなければいけない。

施さんがおっしゃっている問題提起に大いに賛成しながら、その課題の大きさには呆然とする。

結局のところ、我々は個人単位で何をすればいいかが分からない。

その点まで言及することができれば、世紀の大傑作だったと思います。

(そこまで、言及しなくても著者の分析力には敬服します)

それでも、声を上げなければと。

 

私は海外に住んでいるので、外国人から自身のアイデンティティを問われることが頻繁にあります。

「なぜ日本人はこう考えるのか?」

「握手の時になぜ目を合わさないのか?」(アングロサクソン系に言われたことあります。彼の文化圏では目を合わさないのは失礼だそう)

「なぜ意見をはっきり述べないのか」

自身のアイデンティティーを問われた際に、正確に言語化できませずにモヤモヤとしました。

 

この本の素晴らしいところは、過去から伝承される、脈々と受け継がれてきた和の価値観や日本文化への深い敬意とその背景への考察が読めるからです。

それだけでも買う価値がある本だと考えています。

全編を通して、施先生のもつ人間的な優しさや、日本への愛着がひしひしと感じます。

ぜひ手に取って読んでもらいたい。

大変感銘を受けました。