SNSが嫌いな理由
SNSが世界に登場して10数年。
いまや僕らの世界でSNSは必要不可欠な存在になりつつある。
でも、あえて時代に逆行したい。それ本当に必要?
SNSの利用率
総務省の調査によると、一日あたり60分以上スマートフォンを利用する社会人は過半数を超えており、若い世代は更に多い。
更に内訳を見ていくと、SNSの利用時間は中学生、高校生、大学生、社会人とも「30 分未満」が最も多くなっている。
https://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/kentokai/18/pdf/s5-2-2.pdf
ざっくり言うと、スマホを開いたら、大体半分くらいの時間をSNSに割いているということのようだ。
みんな好きだね。
人に評価されたい
僕がSNSを使わないのは、ついつい無駄な時間を費やしてしまうから。
人の投稿やストーリーを見たりしているのは、なんだか癖になる。
で、あわよくば自分もおしゃれなストーリーや、パーティーで楽しんでる写真を投稿したくなる。リア充アピールしたくなる。
伊藤貫さんの言葉の引用だけど「最近のハーバードや名門大学の学生はつまらないやつばっかりで、他人からサクセスフル(成功者)と見られているかを一番気にする」
今の若者が最も気になるのは「他人からの視線」や「他人が下す自分への評価」。
どうやら日本だけでなくアメリカの若者も似たような感じらしい。つまり評価基準は他人で、人からどう思われているかが一番大事。
この”他人が”自分の評価を左右するという精神性は最近のSNSと非常に親和性が高いと思います。
誰しも経験したことがあると思うけど、SNSの投稿して、イイねが沢山ついたら他人からの承認をられたような感覚。
まるで自分が他人に認められたような、評価されたような錯覚に陥る。
そして、さらに次の投稿では、あわよくばもっと多くの”イイね”を獲得したい、と戦略を考える。
”Attention is begging of devotion"
上はソーシャルメディアの本質を突く言葉だと思う。気づいたらハマっている。
「イイねの数」「視聴回数」「(SNS上の)友達の数」を無意識的に競い合う。
他人からの評価が簡単に数値化され、さらに多くのイイねを稼ごうとするのがSNS文化の本質だと思うし、これはさっき引用した「他人から評価されたい」という今の若者の性質とすごくマッチする。
SNSの力では目標は達成できない
それでも、僕はSNSを極力使いたくない。
”だからこそ”と言うべきかもしれない。
僕がなりたいのは、周りの人間が思いつかないような、より建設的な解決方法を提示出来たり、より生産的でクリエイティブな仕事が出来たり、それでいて親切で、思慮深くて教養がある、"well educated"な人。
そして、ネット空間じゃなくて、現実世界で周りの人を魅了するような人になりたい。
トレバーノアのような、誰もが魅了されてしまうような。
理想的な人間になるためには努力や勉強は不可欠だけど、空き時間のほとんどをSNSに費やすことが生産的で賢い時間の使い方ですか?
少なくとも、TwitterやYoutubeごときが、現実世界で達成したい目標へ導いてくれるモノでも、理想的な人になれるための道具にも、なりえるはずがない。
装飾された自分
SNSの行きつく先は「他人の評価を気にしすぎる」人の”性”が無意識的に強化されてしまうだけだと思う。
その価値観って今の時代では最も没個性なんです。
もちろん、自己承認欲求は誰もが持つものだと思うけど、それをSNSという仮想世界で昇華(消化)してどうするの?と言いたくなる。
しかも、アップロードするセルフィーや風景写真なんて加工された虚飾の写真でしょう。
増長したナルシスティックな自我を、ネット空間に放り投げて、イイねを稼いぐ。
SNSやその文化が原因なのかはわかりかねますが、少なくとも世界中で大量発生している「人からサクセスフルに見られたい」という、他人が評価基準な自意識過剰な現代の若者。
他人と違いをもたらせるような、独特の知性や感性を育みたいのなら、寧ろSNSなんて捨ててしまったほうが良いのだ。
右傾化は悪いことなのか?
アメリカの排外主義的な勢力や、日本の右翼を「反知性的」と左翼は言うのだけれど、反知性主義という言葉はそもそも、「知性主義(intellectualism)」の反意語です。
この(intellectualism)という言葉は、「インテリが机上の空論をやっているという」悪い意味で使われるそうです。
つまり、インテリの言ってることなんて、空想に過ぎないという皮肉・揶揄したことばでありまして、
反知性主義というのは「もう少し現実的に、プラグマティックに議論しようぜ」という趣旨なのです。
字面だけみて、「反知性主義」=「バカ」という意味で使ってる人は根本的に間違っているのです。
反知性主義は本来良い意味でつかわれる言葉なんです。
日本のヘイトスピーチはアレルギー反応
僕は日本のヘイトスピーチや排外主義もグローバリズムに対するある種の悲鳴のように見えます。
グローバル化が進むと、労働者は底辺への競争(Race to the bottom)を余儀なくされる。
例えば、移民受け入れは良いことのように思えますが、日本が移民を受け入れるとどうなるでしょう?
移民とは低賃金で働く外国人労働者が日本の労働市場に参入するという意味ですから、同じ仕事をしている日本人の賃金は低下は避けられません。
経営者からしたら、能力が同じなら、人件費が安いほうを選びますからね。
企業の経営陣には非常に親和性が高いといえます。
安い労働力を仕入れられ、賃金の上昇を抑えられますから。
つまり、外国人労働者と相対的に比較され、日本人の賃金が上がらなくなるのです。
僕は外国人への排斥的な運動は、この賃金の上昇を妨げる原因となる移民を拒否するアレルギー的な反応だと考えます。だって、当事者なら当然抵抗するでしょう。
ヘイトスピーチを肯定しませんが、ただ「排外主義的だ」と非難するのはあまりにも表面的だと考えます。
若者ほど安倍晋三支持
上記のように、ナショナリズムが高揚するのは当然だと考えているのですが、日本で救えないのは若者ほど安倍晋三支持率が高いことです。
安倍晋三は保守的であると同時に、グローバリストという矛盾的な存在だと気づいていないのです。
移民政策、構造改革、グローバル化は日本人労働者の立場を困窮化させます。
これから、労働していかなくてはならない、若い世代ほど、安倍支持が多いのは致命的で、矛盾的にも見えます。
なぜなら、安倍晋三が進めている移民政策は、上記の通り、構造的に日本人労働者を苦しめます。
安倍さんは韓国や中国への強硬的な姿勢は「保守的」にうつり、外国勢力に対抗できる政治家だと表面だけ見て勘違いしてしまっている。
しかし、実際は過激なグローバリストでもあり、国を開こうなどと時代に逆行していて、純粋な保守政治家ではありません。
僕は日本のこの傾向はこのまま加速していくだろうと考えています。
年齢層が低いほど保守的(反中、反韓国、と同時にグローバリスティックという矛盾)であり、その矛盾した構造に気づいていないように思えます。
そして、そうした間違った右よりな人々の全体に占める割合がこれからどんどん増えてくる。
なぜなら、リベラル的な団塊の世代はこれから舞台から退場していきますから。
若い世代がそのまま上に上がれば、日本の悪い意味での右傾化が止まらなくなる。
静岡市長
まあ、話題にする価値もない男だけど。https://youtu.be/Si1vu1cBs0g
パワハラするような人間が市長になること自体が間違ってるんだろう。
エドマンドバークなら何て言うだろうって考えてしまう。
これだから役人は。
僕が気になったのはむしろ静岡市役所の役人の対応。
「受け取り方は人それぞれ〜」
何をポストモダン的な講釈言ってんの。
哲学の授業?笑
「個人の受け止め方でしか、三浦記者(NHK)の受け止め方でしか、事実の確認がとれない」
壇上に当事者様がいらっしゃいますよ。
ご本人にお答えいただければ済む話。
最終的には、三浦記者が引き下がらないので逆切れし始める。
僕が気になるのは、三浦記者を黙らせようとして、芝山?とかいう静岡市役所の女性職員が「他の記者さんにも迷惑ですので」と言うこと。
都合の悪い言論を封殺するために、周りの記者をだしにして、主語をすり替えて相手を黙らせようとする。
極めて日本的なレトリックだと思った。
同調圧力を意識させて相手を黙らせようとする。
こういうの見ると、「あー日本だ」と思うわけだ。
古市の話
「自分の命だとか自分の大切な人の命よりも大事なものはないと思うんですね。それより国家は上位には来ない。もちろん国家の軍隊を否定するものではありません。国家があるから軍隊があるから安全保障が保たれているとは思います。ただそれは人…」
この言葉は古市のTVでの発言だそうだ。
詳しくは知らないんだけど。いやーな感じがするね笑
自分という物が日本社会によって形作られてきたという概念がないから、このように思うのでは無いでしょか。
戦争になるなら、さっさと海外に逃げる。
いや、思考としては分からなくはない部分もある。
僕も臆病者ですから、戦争も災害も、自分の弱い命が、無情で強大な力の前で危機に晒されるというには、単純に恐ろしい。
でも、日本という国に育てられたという意識がある以上、それを護るのが男という物じゃないの。
こうして、日本語で僕の気持ちを表せられるのは、先人たちが命がけで守り抜いたから。
日本人は日本文化の中で育つから日本人たりえるのですよね。
それを見て見ぬふりして、尻尾巻いて逃げ出すと。
古市の考え方って自分と彼女、どちらかしか生き残れなくなったら、女を犠牲にして自分を助かる方を選ぶタイプ。
最愛の人には家族と友人が、その家族友人にも大切な人がいる。
それら全ての人が蹂躙されようとしているときに、何もしないなら、男と呼べるのかね?
この無機質で、自分勝手な人間が現代日本人にいるのかと思うと、ゾッとしますね。
こいつが若者代表なんて、俺は古市よりか随分年下だけど、情けない。
オンラインサロンがなぜダメダメなのか
僕がオンラインサロンという物に対する最初の印象は、皆さんと同じような物だった。
1 胡散臭い
2 やってる連中が胡散臭い
以上二つの項をブレイクダウンしていき、オンラインサロンをブレイクしよう。
1 胡散臭い
メルマガと変わらない
何を持って胡散臭いかという問題もあるが、情報を売るという点で、オンラインサロンの構造は情報商材と同じだと考えて良い。
会員限定のメルマガ程度が関の山。
情報を得るということに対価を支払うのは理解できる。みんな本を購入したりするし。
何が言いたいかと言うと、所詮は新しいプラットフォームで先進的なことしていることをしているように見えるだけで、コンテンツのクオリティが書店の新書より劣っていたら、それはただのコスパの悪い粗悪品だということ。
でも、メルマガなんてものは、所詮は1個人の知識と経験による薄味な発泡酒のようなものが多く、発泡酒の域を出ていないものが多い。
(発泡酒に失礼かもしれない)
その程度の安酒が、高級ビールに扮してギネスやパウラーナーと同じ料金で売られているような感じだ。
だいたい、構造的にゆるいのだ。なぜならメルマガやサロンの文章は出版社という文章のプロたちの検閲を通さない。
しして、劣悪なコンテンツでも信者が喜べば問題ない。
(だから、宗教的だと言われるのかもしれない。)
だったらエマニュエル・トッドやエドマンドバークの本のほうが、そのクソメルマガ一月分の費用で何倍も勉強になる。
体験なんてヨソでもできるぞ
「体験を共有する」とか「ものづくり」を共同体ベースでやりたいという願望もあるのはわかる。
それって現実世界に友達がいればできる話じゃん。
僕もその手、趣味が同じ人で集まるコミュニティに属しているけど、お金は発生しないw
お金が無くても一緒に何かやろうという、体験へのキッカケ(catalyst )に入会金もSubscription cost(費用)も必要ない。
商売ベースでやってる似非コミュニティは本物のコミュニティに勝てないことを断言しよう。
お金が発生しないからこそ友達付き合いできるのだ。
僕はこのコミュニティで圧倒的に年下なんだけど、それでも友達関係が作れる。
年齢や業種、住んでいる場所やバックグラウンドも全く違う。
そして、そのコミュニティ自体はオープンな物で、誰でもタダで加入できる。(当たり前だ)
そもそも、お金を払う事で人間関係という対価を得るという経済市場主義的な発想が不純なのだ。
人間関係を作る目的でお金を払う必要が本当にあるだろうか?まるで風俗じゃないか。
「対価を支払う事で疑似恋愛を購入する」という風俗に足繁く通うオヤジの心理構造とオンラインサロンに集まる夏の虫は、僕に目には同じように写る。極めて貧相な人間の集まりではないかと。
そういう寂しい奴は、お金を払わないとそのような関係を築けないコミュ力不足に苦しんでいる。
そして、「お金を払えって、人間関係という対価を得られる」という安易な経済至上的な発想が最大の原因だろう。
2 やってる連中が胡散臭い
致命的だけど、オンラインサロンがで始めた頃、やり始めた連中が相変わらずな面々だ。
セクハラで問題の自称天才編集者などなど。
そして、動機もお金儲けくらいにしか考えてないだろうな、と。
みんな思ってるし、多分その程度なんだろうな。
ここについてはブレイクダウンしなくてもいい気がする。
みんなの直感で判断すれば良い。
まとめ
ひろゆきさんの言葉を思い出す。インターネットというウソ情報の渦の中で、どのような情報にアクセスすれば良いか?
(まあ、インターネット以前の時代だって情報は山のようになったはずだけど)
答えはその人の選び方と素養になる。
情報にアクセスするのにも、取捨選択をするための眼力が必要になる。
しかし、考えるのがめんどくさい人や、バカがこの世にたくさん居る。
そういう人には、オンラインサロンなどという下らない物に金を払うのだろう。
まさに飛んで火にいる夏の虫というわけだ。
そういうバカに向けたプラットフォームがオンラインサロンだろう。